決めていない人たち

高校時代の想い出 沖縄のある場所へ行き、一般のお家にショートステイをした。 そこのお家のおじいさんは芸術家で、いわゆる反戦のための作品をつくる人だった。 そこで何をして遊んで、何を食べたのだろう。あまり細かく思い出せない。しかしそのおじいさんの話がわすれられない。おじいさんの話はおじいさんのおばさまのことについてだった。 おじいさんのおばさまは米軍向けの娼婦、いわゆるパンパンだった。そのために子宮を摘出する手術を受けたのだという。 おばさまは泣きながら、自分はもう子供が産めない、と言っていたそうだ。 おじいさんは素面のときは至って普通の優しい人という印象だったけれど、お酒を飲むと一変した。おそらく理性のようなものは飛んでしまうらしく、泣きながら同じ話をする。 お家の奥様が出してくれたソーキそばは冷めてしまっていた。 何も言えなかった。そういうことがあったという事実は知ってはいたが。 ほんとうの嘆きと悲しみというものに人生で初めて触れた。 同時に彼は私への憎しみに似たものをぶつけてきた。 わたしは彼にヤマトンチュと呼ばれ、なぜ私たちが基地反対運動に協力しないのか、震災で東北に頑張れと言っても沖縄に頑張れとは言ってくれないのか、と問い詰めてきた。 あの時の私は、国際関係が(わかりやすく)絡まないことならば声を容易に上げられるけれど、それが絡んでくる時は声を発するのが難しいからだと答えたと思う。 今になって考えれば、その理由は沖縄で原発反対デモがあまり起きない理由と同じだと言っておければよかった。 遠くの他人の苦しみに本気で思いを馳せることができないのはどこも同じだ。 肌にしみて感じたこと、少なくとも私が接した沖縄の人の何人かは自分を「日本人」だとは思っていない、同化などしたくないという気持ちでいることである。そのお家のお姉さんは何かの式で自分は君が代を歌わなかった、と硬い表情で言っていた。(その気持ちは日本国の象徴としての天皇を仰ぎたくないということからだと私は推測した) その反面、仲間として一緒に戦ってほしいという願いも存在する、少なくともおじいさんはそうであったから(私のことをヤマトンチュと呼んだとはいえ)。 ヤマトンチュという響きに私は困惑する、私は彼らを私と同じ国の人間と思っていたから。そして、他国の人間として扱うのは差別だと思っていたから。 ヤマトンチュという言葉を知らなかったわけではない、しかし現在進行形、かつ”外国人”という意味で自分が言われるとは思ってもみなかった。 私は彼らをどのような存在として扱うのが正解なのだろう。彼らの望むようにしたいとは思うが、それが何であるのか、彼らですら確固たる自覚を持っていると思えない。 そんなことを5年も経ってから考えていた。 私もあの時の彼らも、自分がどういう存在だと思われたら満足だったのだろうか。